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星記者: 勝利星村へようこそ!私は「勝利星報」という新聞の記者で、星(ほし)と申します。最近は「文化を尋ねる」というシリーズを連載しているんですよ。この村に残された歴史ある建物や、木の生態、眷村の歴史など、様々な物語を記事にしています。今日はゲストとしてP君に来ていただきました。この村の隅から隅まで、P君に案内してもらいましょう。
P君: この村は僕の遊び場だからね。まかせてよ!
星記者: 勝利星村は台湾で一番保存状態のいい日本時代の軍官宿舎群なんだってね?
P君: そうなんです。ほら、見てください。この村の建物は豪邸サイズでしょう?大勢の上級将校がこの村で暮らしていたからなんですよ。すごいでしょう!
星記者: 勝利星村創意生活園区の敷地面積は広大で、勝利区、成功区、通海区、空翔区、遺構公園に分けられています。眷村にある歴史的建築物の修築工事が完了すると、屏東県政府はいろいろな種類の独創的なお店を積極的に誘致しました。レストランなどの飲食店やべーカリー、衣料品、家具、個性的な書店、フラワーアレンジメントなど、文化資産の活性化と再利用によって、多くの人たちにとって魅力的な場所となっています。ここでショッピングを楽しみながら、勝利星村の過去と未来を感じることができるでしょう。
P君: さあ、出発しましょう!この村のお年寄りが昔の話を聞かせてくれますから、ご案内しますよ。お年寄りに昔の話を聞く度に、その様子が目に浮かぶような気がするんですよ!
星記者: では、皆さん、お年寄りの話を聞きに行きましょうか!
P君: 星さん、日本統治時代の勝利星村について知りたいなら、こちらの勝利お爺ちゃんに聞くのが一番ですよ!!
星記者: お爺さん、こんにちは。私は日本人が屏東県に軍官宿舎を建てた理由を知りたいんですが。
勝利お爺ちゃん: 台湾初の飛行場はどこに作られたか、知ってるかい?
P君、星記者: 屏東!
勝利お爺ちゃん: それなら君たちも知ってるだろう?屏東県は台湾の軍事航空史上、重要な地位を占めているんだよ。日本人にとって、台湾を統治する上で一番やっかいな問題が原住民だったんだ。台湾には険しい高山地帯が多く、政治的な権力も山岳地帯の奥深くまではなかなか及ばなかった。そこで、日本政府は1919年に屏東県に警察航空班を設立したんだよ。主な任務は山岳地帯で暮らす原住民の動きを偵察することと、政府の力量を示すことだった。つまり、「理蕃飛行」と言われる、原住民を帰順させるための政策だ。この警察航空班は台湾初の航空機関で、その翌年、屏東飛行場も完成したんだよ。
P君: 警察航空班の仕事はそれだけじゃないでしょう?
勝利お爺ちゃん: もちろんそうさ。警察航空班は花蓮と台東間の連絡や、航空郵便の仕事もやって、7年ぐらい活躍したんだ。1927年に日本が二つの世界的な軍縮条約を締結すると、陸軍飛行第8連隊がそっくりそのまま九州から屏東に移されて、警察飛行班の代わりを務めるようになったんだ。その隊員たちの住居として、最初の官舎が建てられたんだよ。
星記者: その最初に建てられた官舎というのは、園区のどの辺にあるんでしょうか。
P君: 僕、知ってるよ。最初の官舎は成功区の成功路あたりにあるんだ。
勝利お爺ちゃん: そうそう。さすが地元っこのP君だね!
星記者: 勝利お爺ちゃん、日本統治時代にここで暮らしてた日本人はどんな仕事をしていたの?
勝利お爺ちゃん: そうだねえ。日中戦争と太平洋戦争の後期になると、屏東飛行場の役割はますます重くなっていったんだ。1936年、第8連隊は陸軍第3飛行師団へと編制拡大されて、屏東は「重要な航空拠点」とされたんだ。その翌年、日本はまた屏東飛行場に陸軍航空支廠(ししょう)を設立して、台湾島にある全ての陸軍航空隊の飛行機の点検や整備、部品の供給を行うことになったんだ。当時の日本には四つの航空支廠しかなかったんだけど、屏東支廠はそのうちの一つだったんだよ。どれだけ重要な場所だったか、君らにもわかるだろう?
星記者: 島内にある軍用機の後方支援には、大勢の人手が必要だったでしょうねえ!
勝利お爺ちゃん: そうなんだよ。その頃はもう屏東飛行場は以前のような戦備基地ではなく、攻撃戦ができる基地に変わっていたから、編制人員も大幅に増加していたんだ。
P君: 人が増えたから、宿舎もたくさん建てなきゃならなかったんだね。
勝利お爺ちゃん: そうだね。だから1937年から「崇蘭陸軍官舍」の建設が始められたんだよ。場所は今の中山路と青島街一帯だった。「将軍屋敷」があるあたりの建物だね。
P君: 確かあの辺にはすごく大きな宿舎が一つあったけど、あそこには誰が住んでいたんですか?
勝利お爺ちゃん: あそこには一番えらい将官が住んでいたんだ。つまり、第3飛行師団長の宿舎だったのさ。今は「孫立人将軍行館」になってるね。
星記者: P君、後で一緒に見に行こうか。
星記者: 勝利お爺ちゃん、第二次世界大戦が終わってから、この村はどんな風に変わったんですか?
勝利お爺ちゃん: 国民政府が台湾にやって来てから、屏東飛行場は空軍第6連隊に接収されて、軍官官舎群の一部は空軍の眷村になったんだ。1937年に建てられた「崇蘭陸軍官舍」は、孫立人将軍が率いる陸軍によって接収されて、名前も「勝利新村」に改名されたんだよ。
P君: 今、お爺ちゃんが言った「新村」の「新」は、「新幹線」の「新」だよ。
星記者: このあたりの官舎に入居できたのは、軍のえらい人たちが多かったそうですね。
勝利お爺ちゃん: そうだね。ほとんどが孫立人将軍に従って各地で戦った重要な部下ばかりだったんだ。初めにこの辺の宿舎を与えられた人たちの軍隊での階級は、ほぼ全員が「少将」以上だった。
星記者: 少将以上の階級章には星がついていますね。だから、この園区の名前は「星空」の「星」に変更されたんでしょうか?
P君: 大当たり!僕らの眷村の星は多すぎて数え切れないぐらいなんだよ。
星記者: 日本統治時代の陸軍官舎が国民政府に接収されると、少しの間だけここで暮らすんだと思っていた軍人とその家族は、この地に自分たちの家を建て、定住し始めました。その人たちの家はどういった経緯で勝利星村文創園区になったんでしょうか?勝利お爺ちゃん、教えていただけますか。
勝利お爺ちゃん: 何十年も経つと、ここに住んでいた人たちの中には亡くなる人もいたし、家も古くなってもう住むことができないから、みんなが次々と引っ越してしまったんで、空き家もどんどん増えていったんだよ。そうしたら、国防部が町の景観を刷新して眷村文化も保存する、私ら眷村の住人の世話もしてくれるって言い出したんだよ。それで、この古びた眷村の改築が始まったんだ。
星記者: そうですね。2007年に文化の保存という考え方が眷村の改築条例に盛り込まれてから、台湾各地に残されていた眷村が、いろいろな形で活用されて、眷村文化が保存されるようになったんですよね。勝利新村の官舎群も2007年に歴史的建築物として登録されましたね。
勝利お爺ちゃん: 2010年に屏東県政府が私らの村でもいろいろな作業を始めたんだよ。歴史の調査とか、建物の修復とか、再利用の計画を立てたりとかね。最終的には2018年に勝利星村創意生活園区という名前がつけられたんだ。
星記者: 地元のお店やイベントの開催によって、この園区の特色豊かな集落や町並みが作られて、屏東の地域文化の永続的な発展を支えているだけでなく、眷村文化も保存されていますから、多くの人たちに眷村の歴史を知ってもらい、眷村ならではの多元的な文化の大切さを理解してもらえるでしょう。
勝利お爺ちゃん: 皆さん、いつでも遊びにいらしてくださいね。皆さんこそが地域文化を広めるための大切な種なんですから。 。
星記者: 2019年のランタンフェスティバルで初登場した屏東のP君は、勝利星村のイメージキャラクターです。「いっぱい食べて、いっぱい遊んで、いっぱい笑う」眷村の子供たちの代表です。この園区には全部で10体のP君像がありますので、いろいろなポーズのP君を探してみてくださいね。P君を見ると、眷村のパワーが感じられますよ!
P君: こんにちは~!僕が屏東のP君だよ。この村で一番忙しいのも僕なんだ。路地裏の角を曲がれば、ビー玉で遊んでる僕や、カエル釣りをしてる僕に会えるかもよ。どこにどんなおもしろいものがあるのか、この眷村で生まれ育った僕に聞けば間違いないよ!実は僕はネットでも人気があるんだよ。みんなが僕を探し回って、一緒に写真を撮りたがるんだ!ええ~君たちも勝利星村のFBで「P君日記」を見てるの?ほらね、やっぱり僕は人気者なんだよ!
女性の声: P君、ごはんだよ!
P君: ごはんの時間だから、また後でね!今日はどのご近所さんがおかずをおすそ分けしてくれたのかな。早く帰らなきゃ! 。
星記者: 私の後ろにある園区のインフォーメーションセンターは、昔は陸軍官校校長の宿舎でした。これまで数十人もの将軍がここで暮らしたので、「将軍屋敷」と言われています。この白い建物は一戸建てで、屋根には黒い瓦が使われています。庭の四方を囲んでいた塀は取り壊されて、ただ一つ残された赤い門扉(もんぴ)がこの園区で一番目を引く特色となっています。
P君: 星さん、将軍屋敷は何階建てたかわかる?
星記者: そりゃあ、平屋建て(ひらやだて)でしょう。あれ、違うな。なんで後ろの方が二階建てになってるんだろう!?
勝利お爺ちゃん: 勝利爺さんがお答えしようか。実は将軍の家はもともと平屋建てだったんだよ。国軍に接収されてから、北側に2階が増築されたんだ。普通とはちょっと違ったところに気がつかないかい?
P君: 地面に近いところに窓みたいなのがあるのはどうして?
勝利お爺ちゃん: あれは床下換気口(ゆかしたかんきこう)だよ。村の建物のほぼ全てについてるね。日本人はここに家を建てる時に、高温多湿な気候を考えて、地面の熱気がこもらないように床板(ゆかいた)を高くして、家の基礎に換気口をつけたんだ。こうすると、室内の風通しもよくなるからね。もっと快適にしたければ、床下に虫やネズミが入り込まないように、この換気口に金属の網を取り付けると、防疫対策にもなるんだよ。
星記者: 日本人は熱帯地方で家を建てた経験がなかったのに、いろいろ工夫をしながら和風建築の様式や構造を調整して、冬は暖かく、夏は涼しい家を建てたんですねえ。
勝利お爺ちゃん: 将軍屋敷の屋根を見てごらん。両側の屋根が合わさって三角形になったところに小さな窓があるんだけど、見えるかな?
P君: うん、屋根の下の壁に小窓があるね!
勝利お爺ちゃん: あれは「屋根裏の通風孔」なんだよ。木造屋根の骨組み部分の風通しをよくするためにあるんだ。修復作業をした園区の人が言ってたんだけど、ここの官舎は1927年と1937年に建てられたそうだよ。ずいぶん長い時間が経っているからね、屋根の骨組みの一部はシロアリに喰われてたけど、ほとんどの木材はしっかりと屋根を支えていたんだって。やっぱりこの小窓の効果なんだろうね。
P君: お爺ちゃん、将軍屋敷の中を見てみようよ。
勝利お爺ちゃん: そうだね。この家には和室みたいな土壁があるんだよ。竹組みに藁を混ぜた土を塗りこんで作った壁なんだ。案内しよう。
星記者: 土で作った塗り壁は部屋の仕切りに使われるんですよね?
勝利お爺ちゃん: そうだよ。土壁を作る時はまず先に細い竹を麻縄で縛りながら、竹を格子状に組むんだ。それから、粘着性のある土と籾殻(もみがら)・麻で混ぜた泥漿を竹組みの両面に塗る。その表面にまた漆喰(しっくい)を塗って、表面をきれいにするんだ。こういう壁は熱の吸収が早くて、湿度の調整もしてくれるんだよ。
星記者: 全て天然の素材を使って作られた土壁は、環境保護が重視される時代にぴったりな低炭素建築なんですね!
星記者: 私は今、青島街106号の前にいます。この園区で名高い将軍屋敷の前ですね。なんという名前の将軍がここに住んでいたんでしょうか。勝利お爺ちゃんとお婆ちゃんにお話をうかがってみましょう。
勝利お爺ちゃん: この家は鳳山陸軍官校校長の官舎で、校長だった湯元普将軍は1986年から1989年までここで暮らしていたんだ。湯将軍はここで暮らした最後の校長でもあるんだよ。
星記者: 湯元普将軍についてご紹介いただけますか。
勝利お爺ちゃん: 湯将軍は1925年に江蘇省の小さな農村に生まれたんだ。軍人一家だったから、国民党軍の撤退に従って10代で台湾にやって来たんだよ。その後、国防大学を卒業して金門に駐留したこともあった。1986年の終わりに陸軍官校校長になったんだけど、任期中に校内のいろいろな設備を新しくしたり、優秀な先生方を何人も招いたりして、学生たちのために教育の質を高めようとしたんだ。校長の任期満了後は、軍隊で数々の重要な職務を担い、退官後も屏東の天然ガスの会社で会長を務めて、この地方のためにいろいろな事をしてくれたんだよ。
勝利おばあちゃん: 確か湯将軍の一家は週末や休日、冬休みや夏休みの時だけこの村で過ごしていたわね。子供たちは庭の中やギンコウボクの木の下で駆け回りながら遊んでいたわ。長い竹竿でマンゴーを採ろうとしたりしてねえ。この村はどの家の周りにも塀があったから、大人たちは安心して子供たちを庭で遊ばせていたの。大騒ぎしても塀の外まではあまり聞こえなかったしね。
星記者: 湯将軍がここで暮らした年月はさほど長くはありませんが、きっと忘れがたいほど穏やかな時を過ごされたんでしょうね。
P君: 星さん、この大きなギンコウボクの木は勝利星村のランドマークなんだよ!樹木博士のところに行って、お話を聞こうよ。案内するね。。
星記者: 樹木博士、あの人は木の上で何をしてるんですか?
樹木博士: あの人は枝の剪定(せんてい)をしているんですよ。ギンコウボクは生長速度がとても速いから、すぐに屋根を覆ってしまうんです。ちゃんと剪定をすれば、もっと高くなるんですよ。15mぐらいまで育ちますね。木陰になれば、家の中の暑さもやわらぐし、見た目もきれいですよね。ギンコウボクはアジアの熱帯から亜熱帯に分布している植物なんですが、1661年に中国南部から台湾に移植されたんです。温暖で日照時間が長い地域に適しています。毎年、台湾では春の終わりから秋にかけて花が咲きます。身体にいい漢方薬としても使われているんですよ。
P君: 大きな花だねえ。真っ白でいいにおい。遠くからでも花の香りですぐわかるね!
星記者: でも、こんなに香りが強いと、虫がいっぱい飛んでくるんじゃ?
樹木博士: そうなんですよ!だから昔は家の近くにはあまり植えられなかったんです。でも、ギンコウボクには「清らかで高潔な精神」という意味や、万事順調という縁起のいい意味があります。財富や権勢の象徴でもあるので、将軍屋敷のそばに植えるのにふさわしい木なんですよ。
P君: 台湾にはギンコウボクの木があちこちにあるんだよ。でも、こんなに大きくて、樹齢100歳近い木はとっても珍しいんだ。すごいよね!
星記者: この村の大木はみんな、村人たちと長い年月を過ごして、歴史を見つめてきたんだね。村と強く結び付いていると言ってもいいだろうね。
P君: 星さん、このインスタレーションは何で作られていると思う?
星記者: 飛行機の一部のように見えるけど、ミサイルみたいな形だね!
勝利お爺ちゃん: 半分は当たりだな。昔、眷村で物資が不足していた頃、いらなくなった飛行機の部品はどれも宝物になったんだよ。上下にある筒状のものは飛行機の増設燃料タンクなんだ。
星記者: 増設燃料タンクって何ですか?
勝利お爺ちゃん: 増設燃料タンクは飛行機に追加で付けられた燃料タンクで、航続距離を伸ばすことができるんだよ。飛行中に緊急事態が発生した場合は、増設燃料タンクを捨てれば、機体を軽くできるんだ。飛行機が廃機になったら、いらない部品はみんなが持ち帰って再利用したんだよ。例えば、この増設燃料タンクも家の裏庭に置いて、給水塔として使ったんだ。
P君: 星さん、ここだけの話だけど…。こんなに大きい増設燃料タンクを運ぶのは一苦労だよね。普通の人がもらえるものじゃないし。すごいでしょ!
勝利お爺ちゃん: いやあ、君たちには想像できないかもしれないね。あの頃、この村がどれほど物資不足だったかなんて。飛行機の部品は塵取りとか、バケツを作ることができたんだよ。廃機された飛行機の外板(がいはん)で蒸篭(せいろ)を作ったりね。小麦粉の袋だって下着に作り直したほどだよ。本当にどんな物でも最後まで無駄にせず、大事に使ったんだよ!
星記者: P君、この村にはこういうコンクリートで作られた、小さなトンネルみたいな建物がたくさんあるけど、これは何に使うの?
P君: ああ、これは防空壕だよ。勝利お爺ちゃんが言ってたんだけど、第二次世界大戦の時に、米軍の空襲から身を守るために、日本人がこういう防空壕を作ったんだって。壁の厚さが30cmもあるんだよ。
星記者: 戦時中に作られた防空壕にもいろいろな種類があるのかな?
勝利お爺ちゃん: こういう地上に作られた防空壕は、たいだい3軒か5軒の家に一つあって、ご近所さんたちみんなで使っていたんだよ。爆弾の破片でケガをしないように、空爆がある度にここに入っていたんだ。この村にはもう一つ門の形をした防空壕もあって、その防空壕は地下室に通じているんだけど、数(かず)はとても少ないね。
P君: この村にある防空壕の大部分はこういうトンネル型だよ。僕は友達と一日中防空壕でかくれんぼしているから、間違いないよ!
星記者: 私たちは今、青島街81号にやって来ました。こちらにある2軒の家を繋げて一つにした平屋建ての家は張其中将軍の旧居です。では、勝利お爺ちゃんに張其中将軍についてお話していただきましょう。
勝利お爺ちゃん: 張其中将軍は広東省の農家に生まれたんだ。抗日戦争と国共内戦に参戦したんだけど、43年の軍隊生活で常に職務に忠実だったそうだよ。1960年ぐらいにこの村に引っ越して来てね。それからはずっとこの村で暮らしたんだよ。今はこの官舎もコーヒーショップになっているんだ。店のご主人は張家の三代目なんだよ!
星記者: 家をコーヒーショップにしたのは、きっと村と繋がりを持ちたかったからでしょうね。この村の人情の温かさには心を打たれます。
勝利お婆ちゃん: 確か張家の子供たちはいつも玄関脇のプルメリアの木に登って遊んでいたね。あの頃、張さん一家は9人家族で、この狭い家にぎゅうぎゅう詰めで暮らしていたんだ。張将軍も床(ゆか)にふとんを敷いて寝なきゃならなかったんだよ。だけど、そうやって暮らしていたからこそ、家族みんながとっても仲がよくてね、きっと忘れられない思い出だろうねえ。
勝利お爺ちゃん: 張将軍は1962年から1966年まで「勝利軍眷新村自治会会長」を務めたんだ。簡単に言えば、村長みたいな仕事だね。だから、張将軍はこの村のことは何でもよく知っていたんだよ。
星記者: 張夫人の料理の腕前は一級品だったそうですね。
勝利お婆ちゃん: そうそう。奥さまは広西省出身だったけど、広東料理がお得意でねえ。裏庭に漬物を仕込んだ大きな壷がずらっと並んでいたわよ!それに、干し豚肉を作るのも上手だったわね。毎年、年末になると、庭いっぱいに豚バラ肉が干してあったから、それを見たみんなはよだれを垂らしてたね!
星記者: 干し豚肉のいいにおいがするような気がしますよ!
星記者: 青島街81号にはとてもきれいなたまごの花が咲いています。樹木博士に説明していただきましょう。
樹木博士: 花の色合いがたまごみたいだから、台湾では「たまごの花」と言われているんです。中国語は「緬梔」、日本語は「プルメリア」です。最初はオランダ人が台湾に持ち込んだと言われてるんですよ。この植物の毒性を利用してマラリアの特効薬が作られました。日本統治時代にもアタマジラミの治療に使われたんですよ。
P君: へえ、おもしろいなあ。この木はこの村で一番大きなたまごの花なんだよ!
樹木博士: このプルメリアの木は高さが9mあります。この木の限界に近い高さですね。
星記者: いい香りですねえ!私もカラタネオガタマの香りが大好きなんですよ。よく熟したバナナのにおいにちょっと似ているんで、バナナの花なんて呼ばれることもあるんですよ。
樹木博士: カラタネオガタマは景観植物なんですが、精油が取れるし、薬用にもなるんです。一日中日当たりのいい場所か、半日は日が当たる場所に植えるのが適していますが、一日中日当たりのいい場所の方がきれいな花が咲くし、花のつきもよくなるんですよ。
P君: ゲッキツもあるよ。ゲッキツの花もいいにおいがするんだ!
樹博士: ゲッキツの花の香りはとても強いので、遠くからでも香りがわかるんです。それで台湾では「七里香」と言われるんですが、日本語と同じく「月橘」とも言われます。生長速度はゆっくりですが、とても硬い木なので、印鑑を作るのに向いています。果実の汁は子供の遊びに使えます。爪に塗れば、透明なマニキュアのようになるんですよ。花はアロマオイルが取れますし、葉っぱをもむだけでいいにおいがするんです。
P君: 皆さん、僕たちは今青島街77号に来ています。このあたりにはビワモドキの木があるんですよ!
星記者: P君は記者のマネがうまいなあ。ビワモドキも知ってるなんて。このちょっと特別な木は高温多湿の気候を好むから、屏東に植えるのにちょうどいいんだよ。
樹木博士: 星さん、よくご存知ですねえ!ビワモドキの原産地は中国、東南アジア、インドなどです。1901年に台湾に持ち込まれて以来、あちこちに植えられるようになったんです。ビワモドキも果樹の一種で、葉っぱは野菜のように食べられます。果肉はカレーの材料としても使われ、カレーの口当たりがよくなります。その他にもペクチンを利用して化粧品のフェイスパックや、酸味が爽やかな飲み物が作れます。昔の村民は果実でジャムを作っていたんですよ。でも、この木の実はものすごく大きくて、最大1キロぐらいになるから、落ちた実が人に当たったりすることもあるんです。
P君: それは怖いなあ。この木の下を通る時は気をつけるようにって、友達にも言っておかなきゃ。
星記者: この村にはワサビノキもあるんですよね?ワサビノキは確か健康食品にもなるとか…ですよね?
樹木博士: そうなんです。ワサビノキは1930年に台湾に移植されました。この木の葉と果実は内服薬にも外用薬にもなるし、いろいろな健康効果もあるんですよ。それに葉と種はワサビやトウガラシの代用品になるので、辛味のある調味料も作れます。乾燥にも強く、生長速度も速いから、台湾では「奇跡の木」とも言われるんですよ。日本でも「ミラクルツリー」と言われていますね。
星記者: 栄養豊富で健康にもいい植物なんですねえ!
勝利お爺ちゃん: 星さん、青島街95号までご案内しましょう。あそこには陸徳耀将軍が住んでいたんだ。陸将軍一家は1971年にこの村に越して来たんだよ。
星記者: 官舎の前に植えてあるこのモクセイの花、とってもいい香りですねえ。
勝利お爺ちゃん: このモクセイにまつわる逸話があるんだよ。陸将軍は浙江省の農村出身だったんだけど、とても賢くて勉強もよくできたから、師範学校に入学したんだよ。でも先生にはならず、お国のためにがんばろうと思って軍隊に入って、そのまま台湾にやって来たそうだよ。浙江省はモクセイの花で有名だからね。この村に引っ越して来た時にこのモクセイの木を植えたんだ。きっと故郷を思ってのことだったんだろうね。陸将軍が亡くなった後も、園芸好きの息子さんがこの木の世話を引き継いで、よく手入れをしているんだよ。
星記者: いいお話ですねえ!陸一家にとってこの木は単なる思い出ではなく、代々継承するものなんですね。
勝利お婆ちゃん: リュウガンの木にも逸話があるのよ。あの頃は物資が不足していたんで、陸さん家(ち)のリュウガンの木は子供たちの大好きなおやつだったのよ。いつだったか、食べ過ぎた子が熱を出して、身体の具合が悪くなっちゃったの。そしたら、奥さまがリュウガンの木を切り倒してしまったの!
星記者: はははっ。ここの庭にはコンクリートで作られた門みたいなものがありますけど、あれは何でしょうか?
勝利お爺ちゃん: あれは日本人が残していった防空壕だよ。私と陸さん家の子供らはよくあの中に入って遊んだもんだよ。今思い出しても子供の頃は本当に楽しかったなあ。
星記者: P君、眷村ではどんなことをして遊ぶの?
P君: いろんな遊びができるよ!用水路でオタマジャクシを捕ったり、みんなで大きな木に登ったり。あとね、隣のおじさんが木の枝にブランコを吊るしてくれたんだよ。いつも友達と誰が一番高くこげるか競争したんだ。ちょっと怖かったけどおもしろかった。
星記者: 何か忘れられない思い出ってある?
P君: えへへ、前に一度、木に登っていた時、うっかりハチの巣を壊しちゃったんだ。そしたらハチの大群が襲ってきて超びびったよ!そのまま木から落ちちゃったんだ!
星記者: あっはっはっ!木の実を採って食べようとしたんでしょう?
P君: そうじゃないよ。木に登ると遠くまでよく見渡せるんだ。この村を守るために、見たことのないヘンな人が村に入って来ないか見張ってたんだよ。それと、どこかの家の木になった果物が熟した時、マンゴーとか、リュウガンとか、スターフルーツとかね、必ず子供たちを呼んで食べさせてくれたから、こっそり盗み食いしなくてもよかったんだよ!
星記者: この村の人たちは本当に仲がよかったんだね。あそこのソーセージの屋台を囲んでいる子たちは何をしているんだろう?
P君: きっとおなかが空いたからおじさんにおねだりしてるんだよ。あのおじさんはすごくいい人で、いつも僕らにタダでソーセージを食べさせてくれるんだ。畑でサツマイモを掘って、それを焼いて食べたりもするよ!焼きいものいいにおいは遠くからでもすぐわかるよ!
星記者: 眷村料理にはどんなものがあるのかな?回鍋肉(ホイコーロー)とか、上海風まぜごはんとか、あとはいろいろなものを煮込んだ滷味(ルーウェイ)とかかな?眷村には中国各地から来た人たちが住んでいるから、各地の郷土料理があるんだよね。
星記者: 勝利お婆ちゃん、この食卓に並んでいるのは全部、故郷の味ですか?
勝利お婆ちゃん: 郷土料理もあれば台湾料理もあるよ。それから、ご近所さんの得意料理も。全部一緒に食卓に上るのさ!国共内戦の頃、眷村では物不足が深刻でねえ。その日あるものを使ってごはんを作ったんだよ。
星記者: 眷村料理っていうのは、中国各地の郷土料理が融合したものなんですよね。庶民の食材をうまく組み合わせて故郷の味を作ったんですね。でも、眷村料理と聞くと、私はすぐに麺料理を思い出しますけど。
勝利お婆ちゃん: 1950年代はアメリカの支援を受けていたからね。軍属への配給の多くがアメリカからの援助物資で、その中では小麦粉が一番扱いやすい食材だったのよ。最初は自分の家で作って食べるだけだったんだけど、料理上手な人が生活費の足しにしようと、お店を開いたの。それで眷村の麺料理はだんだん人気が出て、大勢の人が食べるようになったのよ。
星記者: なるほど。それで勝利路には眷村グルメを売る店がけっこうあるんですね。蒸しパンみたいな饅頭(マントウ)とか、冷たい麺料理の涼麺(リャンメン)、パンに似た焼餅(シャオビン)、中華まんの包子(バオズ)とか。
勝利お婆ちゃん: そうなの。あの辺の店はなかなか評判がいいのよ。ほとんどがこの村から引っ越して行った人たちが出した店なのよ!
星記者: そこの壁に大きな黒板があるよ!
P君: ああ、あれは勝利新村自治会の掲示板だよ。村で何か大切なことがある時は、この掲示板でみんなに知らせるんだ。
星記者: 大勢の人が木の長椅子を持って道端に座ってるけど、なんだろう?
P君: あのね、今日は露天映画の日なんだよ! 軍は眷村の住民をいろいろ気遣ってくれて、僕らのために定期的に映画を上映してくれるんだよ。
星記者: 掲示板に映画を上映する場所が書いてあるんだね?
P君: えーっと、重慶路と青島街の入口だよ。
星記者: 星空の下で映画を見るのもいいねえ!いつもどんな映画が上映されるの?
P君: 愛国映画がやっぱり多いよね。勝利お爺ちゃんが言ってたけど、昔はテレビ番組が少なかったから、何を上映してもみんなが大喜びだったそうだよ。映画を見る前に直立不動で国歌斉唱するんだけどね!さあ、行こう!早く行って、いい場所を取らなきゃ!
村内放送:自治会からのお知らせです。村民の皆さん、本日午後に…
星記者: P君、あれは誰が放送してるのかな?
P君: あれは僕らの眷村自治会の放送だよ。村で何か大切なことがある時はあの放送でみんなに知らせるんだ。
星記者: 眷村自治会って、すごく大事な組織って感じだね。もうちょっと詳しく知りたいなあ。
P君: じゃあ、僕が自治会長のところまで連れてってあげる。行こう!
星記者: 自治会長、こんにちは。この村での自治会の仕事について、お話をうかがいたいんですが。
自治会長: 眷村自治会は軍と眷村住民の架け橋のような存在で、眷村の情報センターでもあります。政令の伝達、緊急時の対応、公共施設の管理や修理、年始年末の集団参拝の手配など、全て自治会が一手(いって)に引き受けているんですよ。
P君: そうそう。村で何か事件が起きたら、僕らが一番先に思いつくのが自治会なんだ。
星記者: さっき村内放送をしていたおじさんは、ちょっとお国なまりがあるようでしたね。それでも皆さんが聞き取れるんですか?
自治会長: ええ。眷村の住民は中国各地の出身ですから、山東なまりもあれば、湖南なまりもあります。なまりがひどいお婆ちゃんが何を言っているのかわからない時は、ご近所さんたちに聞きに行きます。眷村の住民はみんな顔なじみですから、情報もあっという間に広まるんです。
P君: みゃあ~みゃあ~
星記者: P君、何してるの?
P君: 猫の友達を呼んでるんだよ!この勝義巷という路地は勝利星村で一番有名な「猫通り」なんだよ。たくさんのニャンコたちがこの辺りを歩き回ってるんだ!
星記者: ほんとに?ニャ~ニャ~あの三毛猫はなんか丸くて青い物の上で止まってるよ。見に行ってみよう!
P君: あはは。あのちっちゃい三毛猫は地面に貼られた猫に挨拶してるんだよ!
星記者: この路面ステッカーには猫の絵が描いてあるね。それと、「勝義巷」という字。この路地の路面標示なんだね?
P君: そうなんだ。勝利星村はすごく広いから、みんなが迷子にならいように、この猫の模様の路面標示を特別に作ったんだ。この村らしい特色のある標示なんだよ!
星記者: じゃあ、村のあちこちを歩き回りながら、猫の路面標示が幾つあるのか数えてみよう!
P君: そうだ。この勝義巷の突き当たりに李法寰将軍の旧居があるんだよ。その近くには猫ファミリーの壁画もあるんだ!壁には映画のポスターも貼ってあるんだけど、映画の主人公はみんな猫になってるんだよ!
星記者: それはおもしろうそうだね。早く行って見てみよう!
星記者: 私たちは勝義巷9号にやって来ました。ここには何という将軍がお住まいだったんでしょう?
勝利お爺ちゃん: ここに住んでいたのは李法寰将軍だね。李将軍は広西省出身で、わりと裕福な家庭でお育ちだったらしい。もともとはアメリカに留学なさるつもりだったけど、留学はやめて自主的に黄埔軍学校に入学して、家族や国を守りたいと思ったそうだよ。
星記者: そのようですね。李将軍は軍学校を卒業後、アメリカとソ連に留学しましたね。鄧小平と蒋経国とは同級生だったそうですね。
勝利お爺ちゃん: ああ。李将軍は留学を終えて帰国してから、また従軍したんだけど、上官に高く評価されたそうだ。李将軍は外国語に堪能だったので、軍ではよく翻訳という重要な仕事を任されていた。台湾にやって来てからは、誰もが李将軍は陸軍でどんどん出世していくだろうと思っていたんだが、残念ながら孫立人事件に巻き込まれてしまい、大佐に降格されて、そのまま退役になったんだ。
星記者: 勝利お婆ちゃん、李将軍はいつ頃この村に引っ越して来たんですか?
勝利お婆ちゃん: 確か1949年に越してこられたと思うわよ。それから40年ちょっとここで暮らしていたわね。李将軍はあまり外出を好まず、普段は庭を散歩したり、庭木や花の手入れをしたり、飼っていた鶏にエサをやったりするのが楽しみだったみたい。
星記者: 李将軍は外国語が得意だったなら、台湾語も話せたんでしょうね。
勝利お婆ちゃん: ええ、そうよ。李将軍一家はこの村に越して来たばかりの頃から、台湾文化を理解しようとして、台湾語の勉強を始めたり、「歌仔戯」っていう台湾の大衆演劇を見に行ったりしていたわ。いろいろな文化を積極的に受け入れようとしていたみたい。奥さまは村の近くの幼稚園に29年も保母としてお勤めになったしね!
勝利お爺ちゃん: 星さん、私は子供の頃、李将軍の家に泊まったことがあって、畳の上に寝たんだよ。引き戸を少し開けておくと、涼しい風が入ってきて、とっても気持ちがよかったなあ。それから、当時の便所は穴が掘ってあるだけだったから、ものすごく不便だったんだよ。だいぶ後になって、水洗トイレになったけどね。こういうことは全部、私たち独自の眷村の思い出だよ。
星記者: P君、私を表庭(おもてにわ)に連れて来て、どうしようっての?
P君: ここにちょっと不思議な物があるんだよ。「塵芥箱」(じんかいばこ)っていうんだ。日本統治時代に置かれたんだよ。
星記者: その塵芥箱って、この木製のふたが付いている箱のこと?
P君: そうだよ!何に使った物かわかる?
星記者: 前の方の板は開けられるみたいだね…収納用の箱かな?
P君: 一つヒントをあげようか!これは確かに物を入れる箱だよ。でも、この中に入れるのは…星さんがいらない物だよ!
星記者: この箱が置いてある場所も特別だよね。庭を囲む塀のすみっこ。う~ん、まいった!この箱は一体何なのかな?
P君: これは日本統治時代のゴミ箱だよ!動物が入ってゴミを荒らさないようにふたが付いているんだ。前の方にある扉は、ゴミを集める人が庭に入らなくてもいいように、外側から扉を引き上げて、ゴミが取り出せるようになっているんだ。
星記者: へえ、便利だねえ!
P君: 星さん、永勝巷1号にはこの村唯一のピンポンノキがあるんだよ!前に樹木博士がピンポンノキの実を蒸して、食べさせてくれたんだ!
樹木博士: おいしかっただろう?ピンポンノキは200年ちょっと前に台湾に植えられたんです。最高で15mぐらいまで生長して、葉っぱもよく茂るので、街路樹や景観木に使われることも多いんです。ピンポンノキの果実は皮が赤くて、中の種は黒く、実が熟すとぱっくりと割れて、中の黒い種が顔を出します。その見た目が切れ長の鳳凰の目のようなので、台湾ではホウオウの眼の果実と書いて、「鳳眼果」とも言われます。ピンポンノキの実は蒸してもいいし、ゆでても焼いても食べられます。だけど、ペットの猫や犬には絶対に与えてはいけません。死んでしまうかもしれませんからね!
P君: ええ~じゃあ、うちのミャアが食べないように気をつけなきゃ!
樹木博士: それから、村に生えているセネガルヤシの実も食べられますよ。あの木はみんながよく知ってるナツメヤシの仲間ですからね!
星記者: セネガルヤシって、葉っぱが扇子みたいな植物ですよね?
樹木博士: いえいえ。セネガルヤシの葉は大きな羽状複葉(うじょうふくよう)です。葉軸(ようじく)の両側に小さな葉がたくさん並ぶので、鳥の羽根のように見えます。セネガルヤシは日本統治時代に観賞用の植物として台湾に持ち込まれました。平均的な高さは3mから6mぐらいで、幹の直径は30cmほどです。研究者がこの村にある樹木の調査を行ったんですが、セネガルヤシやコガネノウゼン、ティーツリーなど、比較的最近植えられた樹木は「新貴族」に分類されました。リュウガンやレイシ、マンゴーなど、昔からある果樹と区別したんです。
星記者: こういう木は台北植物園と墾丁国家公園で見たことありますよ!この村には本当多種多様な木が植えられているんですね。それぞれに違った魅力がありますね!
星記者: 永勝巷2号は2軒の家を繋げて1棟にした家で、昔はここに羅文浩将軍がお住まいでした。建物の一部はコンクリートで修築されていますが、小石を使った洗い出しの塀や、表庭の防火用水槽、塀の近くに置かれたゴミ入れは日本統治時代のまま残されています。
勝利お爺ちゃん: 星さん、この村のことをよく知っているんだねえ。じゃあ、羅文浩将軍の有名な事跡も知ってるんだろう?
星記者: 前に羅文浩将軍に関するニュースを見たことがありますよ。羅将軍は湖南省出身で、中学卒業後に軍学校を受験したそうですね。抗日戦争の時は「台児荘の戦い」に参戦した功績で勲章を授かりました。孫立人将軍麾下(きか)の重要な人物だったそうです。蒋介石元総統に任命されて実践学社の教育長も務め、国軍の上級将校向けの講演や訓練もなさったとか。大勢の上級将校が羅将軍のことを先生と呼んでいたそうですね。
勝利お爺ちゃん: そうだね。台湾に来たばかりの頃、羅将軍は台北に住んでいたんだけど、転属になったので一家で勝利新村に越して来たんだよ。それから40年以上ここで暮らして、その後、また引っ越されたね。羅将軍の家では庭で猫や犬を何匹も飼っていたなあ。動物たちのおかげで楽しく暮らせただろうね。
星記者: 羅将軍も勝利お婆ちゃんと同じで、猫や犬が大好きだったんですね!
勝利お婆ちゃん: そうなのよう!この村での暮らしは最高よ。広い庭で子供たちやペットと遊べるし、日本風の家は冬は暖かくて、夏は涼しいし、家の建材も長持ちするし、木の床板(ゆかいた)もほとんど壊れたり、腐ったりしないの。ご近所さんとの距離も近いから、暇な時はちょっとお邪魔しておしゃべりしたりね。本当にすてきな暮らしだったわ。
P君: 星さん、僕たちの村にはたくさんの果物の木が植えてあるでしょう?それと、もう一つリュウガンの木にまつわる不思議な話があるんだよ!昔、青島街77号の庭にリュウガンの木が1株あったんだよ。その家に住んでいたお婆ちゃんはとても元気で、90歳になってもあちこち出かけていたんだ。でも、お婆ちゃんはよそに引っ越してからすぐに亡くなってしまって。村の人たちはあのリュウガンの木がお婆ちゃんを守っていたんだって、そう思ったそうだよ。
星記者: 確かに時々、人間と木には不思議な結び付きがあるよね。P君はリュウガンを食べると、縁起もいいし、頭もよくなるって知ってた?リュウガンは「利益」の「益」に「智慧」の「智」と書く、「益智」という別名もあって、知恵が増すと言われているんだ。
P君: へえ、そうなんだ?僕はどっちかというと、ライチとマンゴーの方が好きだな、えへへ。樹木博士はどんな果物が好きですか?
樹木博士: 私もライチが好きですね。ライチの原産地は中国の華南地方で、清代に台湾でも植えられるようになったんです。果肉が食べられるだけでなく、果肉を包む皮も健康食品の原料になるんですよ。
P君: 前に先生が言ってたよ。ライチは楊貴妃が大好きな果物だったって。
樹木博士: その通り!まじめに授業を受けているんだね!じゃあ、マンゴーが世界五大果物の一つだということは知ってるかな?台湾のマンゴーは1661年にオランダ人によってもたらされたんです。当時、村に住んでいた奥さんの一人が農業の専門家で、その人が台湾の在来種のマンゴーと愛文マンゴーを接ぎ木(つぎき)して交配種を作ったんですよ。眷村の小さな庭が果樹栽培の実験場になったんです。
P君: マンゴーの実が熟してくると、早くもぎ取りたくなるよね。
樹木博士: 昔、そう思う人たちがいて困った家があったんですよ。それで、門の前に「マンゴーを採(と)りたい方は玄関チャイムを押してください。」という貼紙をして、マンゴーを採りたい人のために竿まで用意したんです。その家の人たちは、「マンゴーを採りたいなら、堂々と採ればいい!」と考えたんですね。みんなで分け合うのも楽しいことですから。
星記者: それは賢いやり方ですね。人のためにもなりますし。眷村らしいご近所への思いやりですね!
P君: 星さん、本を手になんかブツブツ言ってるけど、なに言ってるの?
星記者: 「転居のため、私は台北市立第一女子高級中学から国立屏東女子高級中学に転校することになり、町中に生える棕櫚(しゅろ)の木と、天を覆わんばかりのホウオウボクの花に突(とつ)として触れることとなり、自然に対する天性の愛が一気に爆発した。」
P君: 何を言ってるのかなあ?
星記者: うわっ、びっくりさせるなあ。今、読んだのは文学者の張暁風が書いたエッセイの一節だよ。張暁風が屏東に引っ越して来たばかりの頃の気持ちを綴(つづ)った作品なんだ。張暁風の父親も将軍で、転属のために一家で勝利新村に引っ越して来たんだ。張暁風は高校生の頃、青春時代をずっとこの村で過ごしたんだ。
P君: へえ~この村出身の文学者がいたなんて、知らなかったよ!
星記者: 張暁風は屏東を描写したエッセイをたくさん書いてるんだよ。張暁風にとってこの眷村で暮らした日々は、とても意義深い経験だったはずなんだ。ここには自分が初めて作品を書いた机があるとか、ご両親との思い出の数々も書いてるんだよ。
P君: 張さんはどの家に住んでいたのかな?
星記者: 張暁風の旧居は永勝巷5号だよ。今は小さな文学館になっていて、誰でも観覧できるんだ。当時、張暁風が暮らしていた部屋には、張暁風の文学作品や昔の写真が展示されているよ。一緒に見に行こうか。
P君: 康定街のオオバマホガニーの木はものすごく大きいんだよう。
星記者: これはとても貴重な木材になる木だよ!
樹木博士: この木は誰かが適当に種を植えたのが、こんなに大きく育ったんですよ。今もこの村にはこんなにたくさんの木が生えていますが、大勢の人が樹木の保存と保護のために尽力した結果、こうして残されることになったんです。オオバマホガニーも景観木として植えるのにいい木で、高温で日当たりのいい場所を好みます。家具の業者も堅くて丈夫な木材になり、赤い色と木目(もくめ)が美しいこの木に注目しています。最近、とても人気のある木なんですよ。
P君: この村には他にも家具が作れる木があるよね。なんて名前だったかなあ?
樹木博士: 例えば、シマナンヨウスギも家具を作れるし、彫刻用にもいいですね。印鑑や杖が作れるカイノキもあります。それから、色に深みがあって、木刀(ぼくとう)や銃床(じゅうしょう)、楽器が作れるタガヤサンもこの村にありますね。
星記者: シマナンヨウスギって、よく海辺で見かける木ですよね?
樹木博士: ええ、そうですね。シマナンヨウスギは常緑高木(じょうりょくこうぼく)で、一日中日当たりがよく、温暖な環境を好みます。乾燥に強く、潮風や空気中の塩分にも耐えますから、防風林にできるので、海岸沿いでよく見かけるんです。カイノキは落葉(らくよう)高木で、ピスタチオの木と兄弟なんです。カイノキの木材には虎の毛皮のような木目があるので、台湾では虎の斑の木と書いて、「虎斑木」とも言われます。タガヤサンは日当たりのいい環境を好み、生長速度が速い木ですが、とても堅いんです。日本統治時代には銃床の素材としてタガヤサンの木材がよく使われたので、昔はあちこちで栽培されたんですよ。
星記者: 南京路はタガヤサンの並木道になっていますね。たぶん50年か60年の歴史があるでしょうね。今はこの村にもごく僅かしか残されていませんから、一見の価値ありですよ!
星記者: ナンバンアカアズキが生えてるよ!ハート型の種がすごくかわいいんだよね!P君は誰かからナンバンアカアズキをプレゼントしてもらったことある?
P君: ないよお。
樹木博士: はははっ!P君が恥ずかしがっていますよ。ナンバンアカアズキは中国語で「小実孔雀豆」と言われることが多いんです。1903年にベトナムから台湾に持ち込まれました。豆のサヤが熟すと、螺旋状にねじれながらぱっくり開いて、ハート型の赤い実がはじけ飛ぶんです。種の形も独特ですし、台湾では「相思相愛」の「相思豆」と言って、「好きな人に送って思いを伝える」という特別な意味もあるので、装飾品の素材に使われることも多いんです。ただ、この赤い実には毒があるので、絶対に食べないでくださいね!
星記者: 特別な意味のある木って、いろいろあるんですね。ナギもそうですよね?
P君: うちのお婆ちゃんが庭に植えてたよ。ナギの木は悪いものを追い払ってくれると言ってたような…?
樹木博士: そうですね。台湾ではナギは「魔除けの木」とも言われているんです。ナギは台湾の在来種なんですが、野外で見かけることはめったにありませんね!中国では、華中地方や華南地方に生息していますし、日本にも分布しています。ナギは一日中日当たりのいい場所か、半日ぐらい日の当たる場所を好んで生長しますが、日当たりがあまりよくない場所でも育ちます。よく見ると、ナギの葉は葉脈がほとんど見えません。かなり変わった葉でしょう?最近は観賞用の小さい盆栽として観賞されています。栽培するのでなければ、食用にもできますし、搾れば工業用オイルも取れます。
星記者: へえ、そうなんですか。それにこの葉っぱをもむと、グアバみたいな香りがしますね。変わった植物だなあ!
星記者: 勝利お爺ちゃん、星星広場の地面に銅製の地図がありますね。あれはどこの町の地図なんでしょうか?
勝利お爺ちゃん: あれは「1940年屏東街道図」を元に作られたんだ。君たちはこの地図を見て、どう思うかな?
P君: この地図の街道はみんな直線的で四角くて、碁盤の目のようだね。
星記者: この地図に書いてある道路は日本統治時代に進められた市街地の区画整理後に作られた、碁盤の目のような街道のはずだよ。
勝利お爺ちゃん: 星さんの言うとおり。前にも話したけど、1937年に日中戦争が始まると、屏東飛行場はどんどん人員が増やされて、たくさんの官舎が増設されたし、官舎用地の道路の敷設もされて、下水道設備も整えられて、屏東全体の拡大と発展が促されたんだよ。
P君: おじいちゃん、僕たちの村はこの地図のどこにあるの?
勝利お爺ちゃん: 地図の下の方にある屏東駅が見つけられるかな?
星記者: ありました!半円形の図形の下に「屏東駅」って書いてあります!
勝利お爺ちゃん: そう。それが今の屏東駅がある場所だよ。屏東駅の上にある道路を上に向かってまっすぐ行くと、左側に「干城町」と書いてあるね。それが今の得勝新村だよ。つまり、遺構公園の辺りだね。
星記者: この地図を見ると、日本統治時代の歴史ある集落の位置がよくわかりますね。この辺りの現在の様子と比べてみると、歴史の奔流の中で変遷した町の姿をしみじみと感じることができるんじゃないでしょうか。
P君: 星星広場にはガジュマルの大木(たいぼく)があるんだよ!
星記者: ガジュマルは台湾でよく見かける木の一つだね。樹木博士、この村にあるガジュマルは樹齢何年ぐらいなんでしょうか?
樹木博士: この村に残されているガジュマルの樹齢はだいたい50年から60年ぐらいですね。ガジュマルは風に強く、湿気と乾燥にも強いので、あまり生長する場所や土壌を選ばないんですよ。ガジュマルは高さ20mほどにまで生長するし、樹冠(じゅかん)も広いので、木陰を作る木として公園に植えるのに適しています。それから、ガジュマルの実は一種の「隠頭花序」(いんとうかじょ)で、咲いた花が中央のへこんだ袋状の花軸に包み込まれるんです。外からは花が見えず、丸い果実になっているんです。それと、隠頭花序はゴシキドリやタイワンリス、メジロ、カノコバトなど、いろいろな生き物がちが食べに来るんですよ!
P君: リスも来るの?僕も見たいな!
星記者: この木もガジュマルですか?でも、この木の葉はハート型ですね!
樹木博士: よく見てますねえ!インドボダイジュとガジュマルは同じクワ科の仲間ですから、ガジュマルにかなり近いんですよ。インドボダイジュは高さ30mぐらいにまで生長します。原産地はインドシナ半島で、よく知られているのはお釈迦さまが菩提樹の下で悟りを開いたという話ですね。それから、この葉っぱは本のしおりにもできるんですよ!
星記者: 私たちは必勝巷1号にやって来ました。こちらにある一戸建ての家は表庭にも裏庭にも大木が生えています。ここに住んでいたのはきっとまた将軍でしょうね!当たりですか?
勝利お爺ちゃん: 当たりだよ。この家には銭庭玉将軍が住んでいたんだ。銭将軍一家は1958年から1982年までこの村で暮らしていたよ。中国東北地方出身の銭将軍は農家の息子で、まだ学生だった頃に戦争が始まったから、学業を中断して従軍することにしたそうだよ。銭将軍の話では、台湾へ撤退した最後の部隊の一人だったそうで、先に台湾に到着していた銭夫人は待ちくたびれてしまい、全財産を売り払って、子供を連れて中国まで夫を探しに行こうとしていたらしい。危ういところだったよ!その後、銭将軍は金門の大胆島で指揮官を務め、6年もの間、帰宅しなかったそうだよ。全ての時間を国家に捧げた人だったんだね。
星記者: 銭将軍は国軍に大きく貢献した方ですね!
勝利お婆ちゃん: そうよ!銭将軍はいつもお留守だったから、家の事は何もかも奥さまが一人でやってらしたのよ。奥さまは料理上手で、特に麺料理がお得意でね。奥さま手作りの葱油餅(ツォンヨウビン)、葱を混ぜた小麦粉を薄くのばして焼いた料理は本当に香ばしくて、いいにおいだったわねえ。
星記者: そんな話を聞いたら、お腹が空いてきましたよ!
勝利お婆ちゃん: 退役後、銭将軍はこの村の自治会の初代会長になったのよ。とっても真面目でね、どんなことでも熱心に取り組んでくださって。ある時、台風で村中がめちゃくちゃになってしまったことがあったんだけど、銭将軍が呼んだ国軍の人たちが復旧作業を手伝ってくれたのよ!本当にこの村のために一生懸命やってくださったわ!
P君: いいにおいだなあ。きっと勝利お婆ちゃんが干し豚肉を燻(いぶ)してるんだ。星さん、行ってみようよ!
星記者: 勝利お婆ちゃん、こんにちは。星です。毎年、年末年始は私も干し豚肉をおみやげに買って帰るんですよ!
勝利お婆ちゃん: そうね。お正月はやっぱりおいしいものを食べなきゃね。私ら湖南出身者はこの臘肉(ラーロウ)っていう干し豚肉が大好きなの。北方の人たちは餃子を食べるわね。餃子の中に硬貨を入れて、お金入りの餃子が当たった人は、その年ずっと幸運に恵まれるのよ!この村の住人はいろんな地方出身だから、家ごとに違った風習や味があるのよ!
星記者: お婆ちゃんはこのかまどで干し豚肉を作るんですか?
勝利お婆ちゃん: そうよ。この下で薪(まき)を燃やして、この上に肉を置いて。薪が燃えると、煙が上に昇って行くからその煙に燻されて、香りが肉にしみ込めば、おいしい臘肉のできあがり。
星記者: 湖南の臘肉は有名ですからね。薪は何の木を使っているんですか?
勝利お婆ちゃん: 私はリュウガンの木を使っているの。サトウキビも使ったことがあるわ。どちらもいい香りよ。
P君: 星さん、お婆ちゃんが上手なのは臘肉だけじゃないんだよ。おいしい料理がいろいろ作れるんだ!
勝利お婆ちゃん: ふふふっ。台湾に来たばかりの頃は料理なんかできなかったのよ。でも、家族に食べさせるために、できるようにならなきゃいけなかったの。まずは故郷の家にいた頃、お母さんはどうやって郷土料理を作っていたのかを思い出して。後はご近所さんたちに教えてもらったりしてね。みんなで得意料理を教え合ったから、今は台湾料理、客家料理、四川料理、何でも作れるようになったのよ!
樹木博士: お二人はブラジルがどこにあるかご存知ですか?ブラジルの国花は何でしょうか?
P君: ブラジルは中南米にある国だね!ブラジルの国の花?それはわかんない!
樹木博士: 正解を教えましょう。コガネノウゼンがブラジルの国花なんです。コガネノウゼンは落葉高木で、高さ15mぐらいまで生長します。原産地はメキシコからベネズエラ一帯で、一日中日当たりのいい場所に植えるのがいいですね。
P君: へえ!そんなに高くなる木なんだ!
樹木博士: フフッ、でも観賞用ならそんなに高くない方がいいですね。コガネノウゼンの葉の縁はギザギザで、果実に毛がありません。果実に金色の毛があるタブベイアとよく間違えられます。この2種類の植物は名前も見た目もそっくりですからね。
星記者: じゃあ、木の実がなるまで、どっちの木かわからないんですね!
樹木博士: でも、ようく見ると、やっぱり違いがあるんですよ。コガネノウゼンの葉は縁がギザギザですが、タブベイアの葉はギザギザがなくて滑らかです。それ以外には、小葉(しょうよう)と萼(がく)にも違いがあるんですよ。コガネノウゼンはとてもきれいで目を引くので、よく街路樹として植えられます。庭に植えるなら、かなり広い空間が必要ですね。日当たりがよくないと、育ちが悪くなりますから。
星記者: だからしょっちゅう道端で見かけるんですね。台湾の気候はこの木にちょうどいいみたいだし、街角に彩りを添えてくれますよね。花が咲く春になると、黄金色(こがねいろ)の海のようになって、花が舞い落ちる様子は本当にきれいですね。
P君: スターフルーツが地面にたくさん落ちてるよ!前に僕が病気になった時、ママがスターフルーツを買ってきて、食べさせてくれたんだ。咳止めや痰切りにいいんだって。
樹木博士: スターフルーツを植えるなら、温暖な中南部がいいですね。この木は清(しん)の時代に台湾に持ち込まれたらしいです。この村では多くの家で、子供のために1株か2株はスターフルーツの木が植えてあるんですよ。食用になるだけでなく、身体にもいいですからね。
星記者: 自宅の庭に植えておけば、いつでも食べられるし、子供たちの遊び場にもなるし、一挙何得ぐらいになるんでしょうね!この村には最近大流行中のアボカドと、食後のデザートにぴったりなフルーツの蓮霧(れんぶ)も植えられていますね。
P君: そうだよ。蓮霧は木から落ちるとすぐに傷(いた)んでしまうけど、僕たち眷村育ちの子供は、いつ頃、蓮霧を採ったらいいか、食べごろがわかるんだ!
樹木博士: 蓮霧は早くもオランダ時代に台湾でも植えられるようになったんです。葉をもむと香りがしますよ。精錬(せいれん)すれば精油が取れます。果実はそのまま食べてもいいし、砂糖や塩をつけて食べるのもいいですね。だから、この村ではこの木を植えている家が多いんです。アボカドは日本統治時代に台湾に持ち込まれました。その後、1954年にアメリカからも12品種のアボカドが持ち込まれ、台湾で栽培されるようになって、アボカド産業の基礎が築かれたんです。
P君: この村には果物の木がものすごくたくさんあるんだよ。
樹木博士: そうですね。自宅で採れた果物をご近所におすそわけすることもあります。お互いにおすそわけをしているうちに、すっかり仲良くなるんですよ。
P君: 樹木博士、このホウオウボクの木陰(こかげ)はすこ~く広いねえ。この木の下にいると涼しくていいなあ!
樹木博士: ホウオウボクは落葉高木で、高さ20mぐらいにまで生長します。木の形が雨傘(あまがさ)のようなので、公園や学校の校庭に観賞用や木陰用として植えるのに適しています。
星記者: ホウオウボクはどんな環境だとよく育つんですか?
樹木博士: ホウオウボクの原産地はマダガスカル島で、乾燥に強い木です。温暖で一日中日当たりのいい場所が適しています。乾季と雨季(うき)の違いがはっきりしている地方だと、花のつきがよくなります。でも、注意が必要なのは、ホウオウボクは空気にやや敏感で、硫化物(りゅうかぶつ)や酸性雨(さんせいう)に触(ふ)れると、葉が落ちやすくなります。それから、この木は根元に根が盛り上がる板根(ばんこん)が出来やすいので、生長を見越した充分な空間があった方がいいですね。そうでないと、建物が根で壊されるかもしれませんから!
星記者: それだと、ホウオウボクを育てるのは、そんなに簡単ではなさそうですね。そういえば、子供の頃、ホウオウボクの花びらを翼に、萼(がく)を身体に、おしべを触角に見立てて、蝶々を作ったことがありましたよ!
P君: わあ、まだ作り方を覚えてる?僕にも教えてよ、作ってみたいな!
星記者: 康定街16号、勝利お爺ちゃん、ここは誰が住んでいたんですか?
勝利お爺ちゃん: 1949年に葛(かつ)南杉将軍がここに引っ越して来られたんだ。それから、およそ半世紀もの間、ずっとこの村で過ごして、2010年に引っ越して行ったよ。葛将軍はフランスに留学する時、もともとは工学関係の学部で学ぶつもりだったけど、お国のために役に立ちたいと考えて、フランスで有名な軍学校に入学したんだ。帰国後は従軍して、有名な戦役(せんえき)の数々に参戦し、孫立人将軍旗下の大将となって、たくさんの戦功を挙げたんだ。その中で一番有名なのは、当時のミャンマーで包囲されていた英国軍と、英国と米国の記者を救出したことだね。
星記者: じゃあ、葛将軍はフランス語が上手だったんでしょうね。
勝利お爺ちゃん: そりゃもちろんさ。昔は国交のあるフランス語圏の国の人が台湾に来る度(たび)に、随行通訳として派遣されていたよ。
勝利お婆ちゃん: 葛将軍は蘇州の大家族の出身で、子供の頃からいろいろな書物を熟読して、書道も上手だったそうよ。退役後は大学で外国語を教えていたのよ。確か夏休みの時に、村の子供たちを集めて書道の練習をさせたり、四書を暗記させたりしていたわね。特に真面目に授業を受けた子にはご褒美の賞品もあったのよ。葛将軍はとても実直な方でね。ある時、台風で葛将軍の家の屋根が壊れて、雨漏り(あまもり)するようになっちゃって。屋根の修理用に軍隊からセメントが2袋(ふたふくろ)もらえたんだけど、葛将軍は自分で買うと言って、絶対に受け取らなかったのよ。
星記者: 教養と誠実さを兼ね備えた、心優しい将軍さんだったんですね!
星記者: この誰もが知ってるおなじみの歌は「オリーブの木」という曲です。どこから来たかと聞かないで~私の故郷は遥か遠く~って歌詞の一節です。昔は勝利新村の家ごとにオリーブの木があったそうですよ!樹木博士、そうなんでしょうか?
樹木博士: ええ、そうです!お二人とも目の前にあるセイロンオリーブの木を見てください。日本統治時代からある、長老クラスの木なんですよ。セイロンオリーブの中では、この村一番の大木でもあります。人間の胸の高さにあたる箇所の太さを測った、幹の胸高直径(きょうこうちょっけい)は140cmぐらいです。セイロンオリーブの原産地はセイロン島で、果実の種がオリーブにそっくりなので、この名があります。セイロンオリーブの葉にはかなり長い葉柄(ようへい)があります。秋から冬にかけて葉が赤く色づくので、実用性が高いだけでなく、観賞用にもなる植物なんです。
星記者: じゃあ、なんで最近はあまり見かけないんですか?
樹木博士: 国軍がやって来てからのことなんですが、セイロンオリーブがあまりにも大きくなりすぎて、木の根で庭が占領されてしまったんですよ。手入れもなかなかたいへんなので、たくさんのセイロンオリーブが切り倒されて、代わりに別の木が植えられたんです。
P君: もったいないなあ!セイロンオリーブの実は、甘酸っぱくてすごくおいしいのに!うちのお母さんはセイロンオリーブの実をドライフルーツにしたり、ジャムを作ったり、オリーブ酢を作ったりするよ。それに、セイロンオリーブの幹は太くて大きいから、枝にブランコをかけて遊ぶのが大好きなんだ!すごく涼しいんだよ!
星記者: へえ、この村の花壇はずいぶん変わってるなあ。セメント製なんだね!
P君: 記者さん~それは花壇じゃないよ~防火水槽だよ~
星記者: P君が言ってるのは、あの水を貯めておく防火水槽のこと?高いのと低いのがあるけど、なんで高さが違うのかな?
P君: 勝利お婆ちゃん、星さんに説明してあげてよ。
勝利お婆ちゃん: 高い方の水槽は貯水用で、低い方は砂を入れてあったの。どちらも火事があった時の消火活動で使ったのよ。日本統治時代は米軍の爆撃に備えて、火が出たらすぐ消せるように、どの家にもこの防火水槽があったわ。日本統治時代はまだ水道が整備されていなくて、ポンプで水汲みをしている地方がほとんどだったのよ。火事が起きてから水を汲みに行くんじゃ、間に合わないでしょう。
P君: 今はこの防火水槽も使い道がなくなったから、花壇みたいに花を植えてる人が多いんだよ。僕んちはこの水槽で金魚を飼ってるよ!